同じ土佐藩の郷士であった土佐勤王党の盟主・武市半平太と、坂本龍馬
幕末に大きな影響力を持っていた二人ですが、どんな関係だったのでしょうか?
みていきたいと思います。

武市半平太が龍馬を詠んだ歌

二人の関係性を示す数少ない史料のひとつに、半平太が龍馬のことを詠んだ歌があります。

肝胆元雄大
奇機自湧出
飛潜有誰識
偏不耻龍名

肝胆元より雄大、奇機自ら湧出す、飛潜誰か識る有らん、偏に龍名に耻じず

肝がすわって機略に富み、闊達なさまはまさに龍の名に恥じない、ということで、半平太の龍馬の評価は相当高くて信頼を寄せていたことが分かります。

半平太と龍馬の関係性を示す史料は少ない

武市半平太と坂本龍馬は、同士として活動しています。
人望や行動力・思想などにおいて、幕末土佐の二大巨頭ともいえる二人ですが、意外にも直接の交友関係を示す史料は多くありません。
なぜでしょうか?

幼馴染の二人

半平太と龍馬は遠縁にあたり、幼馴染でした。
物理的な距離が近かったので、何かあれば会話すればいいのでわざわざ書簡を交わすことは少なく、二人の関係性を示す一次史料は残りにくかったかったともいえます。

とはいえ、半平太も龍馬も江戸に長州に国元にと忙しく活動しており、特に筆まめな龍馬ですから、書簡の往復もあったはずです。
二人の物理的な距離が遠くなるのは、文久2年3月の龍馬脱藩以降ですが、史料が少ないのは、思想や立場に相違が出てきたためでしょうか?

土佐勤王党の結成

文久元年8月、半平太は挙藩勤王をかかげて、土佐勤王党を結成します。

龍馬は国元では筆頭としてこれに加盟していますので、挙藩勤王という半平太の思想に共鳴し、理解しあえる同士であったことが分かります。
そして10月には、半平太の密使として長州藩に向かっています。

龍馬の長州行き&脱藩が分かれ道に?

翌年の文久2年3月、龍馬は土佐を脱藩します。
土佐勤王党結成からわずか7か月で、方向性に違いが出てきています。

これは、この間に、龍馬が半平太の密使として長州に行き久坂玄瑞に出会ったことが大きく影響しています。

半平太は、土佐藩が一丸となって挙藩勤王を実現することに重きを置きました。
当初、龍馬もこれに賛同していましたが、長州藩で出会った久坂玄瑞は、龍馬に草莽崛起論をとなえ、龍馬も非常に感銘を受けます。

草莽崛起論とは、久坂の師・吉田松陰が唱えた考え方で、簡単に言えば、藩や身分という型や枠にとらわれず、日本全国、志あるものはみな立ち上がれ!というものでした。

最初は同じ挙藩勤王という思想だった

武市半平太が掲げた挙藩勤王は、あくまで藩にこだわりました。

一方の龍馬は、当初は挙藩勤王に理解を示したものの、藩という枠を超えた思想に考え方が変わっていきます。
長州の久坂玄瑞の草莽崛起論に傾倒し、藩というくくりからは一度離れたといえます。

そして文久2年3月の脱藩となり、半平太と思想的な一致が薄くなり、各々活動していくことになるのです。

その後、いつまで交流があったか?

脱藩した龍馬は、勝海舟の門下に入り、より開明的な考え方になります。
一方の半平太は、土佐で藩を動かす強い影響力を発揮するに至ります。

二人は仲違いしたわけではなく、それぞれに思う道を進んだわけですが、いつまで交流があったのでしょうか。

文久2年11月、龍馬は半平太を訪ねてきた久坂や高杉と会ったり、江戸で起きた梅屋敷事件について寒菊亭で行われた土佐勤王派の会合に出席したりしており、半平太との交流も続いていたと推察できます。

その後、文久3年9月には半平太が逮捕されて、慶応元年閏5月には切腹して果ててしまいます。

半平太と龍馬が望んだ薩長和解・薩長同盟

坂本龍馬は、薩長同盟を成立させたキーマンとして有名ですね。
そして、犬猿の仲だった薩長の仲介・和解を強く望んだのは、武市半平太も同じでした。
半平太が、今国に帰れば危ないと言われていてもなお国に帰ったのは、薩長和解のために山内容堂を動かすためでした。

しかし叶わず、半平太は捕らえられて切腹となりますが、龍馬はその意思を継いだか否か、慶応2年1月に薩長の和解と密約締結を実現し、さらに薩長同盟の締結も行っています。

根底の考え方は同じ

龍馬は、慶応3年6月に、「私一人にて五百人や七百人の人お引て天下の御為するより、廿四万石を引て天下国家の御為致すか甚よろしく」と述べています。

つまり、半平太と違う道を歩み始めて脱藩した当初とは異なり、再度、挙藩勤王に立ち返っているのです。
これは、脱藩浪士という自由な身で薩摩や長州の間を走り回って薩長の和解がやっとなって、今こそ藩で動けばその先が開けると考えたからでしょう。

つまり、半平太も龍馬も根底の考え方は近く、取った手段が違っただけで、見ていた山は同じであったのでしょう。
直接的な史料は少なくとも、信頼しあった仲間であったのではないでしょうか。

龍馬の妻・お龍の発言

数少ない資料として、龍馬の妻・お龍の回顧談が明治32年「土陽新聞」に掲載されました。

これによると、武市が江戸から国に帰るとき、京で会った龍馬に一緒に帰ろうと誘ったものの、龍馬は今国では誰でも彼でも捕まえて斬っているので帰るべきでないと止めます。
しかし武市は無理に帰ってしまい、結果、切腹して果てました。
龍馬は「俺も武市と一緒に帰っていたら命はなかった、武市は正直すぎるからやられた、惜しいことをした」とため息をついたそうです。

おわりに

武市半平太は人望が厚く実直・誠実な人柄であったと伝わっています。

龍馬も「正直すぎた」と言ったように、真っすぐすぎたために、薩長和解やその先への道が途絶えたように思えますが、龍馬という仲間がいたから、結果的にその思想は成し遂げられたように思います。

半平太も龍馬も、維新を見ることなくこの世を去っていますが、二人は憎みあってまとまらない薩摩・長州・土佐をまとめあげ、間違いなく日本を動かした人物といえるでしょう。