新選組の局中法度について、かんたんに解説します。

新選組の局中法度とは?

新選組の厳しい隊規として有名な、局中法度
局中法度(きょくちゅうはっとがき)とも言われます。

以下の五箇条からなり、新選組での「法」として厳格に運用され、内部粛清に使われたとされます。

  • 士道ニ背キ間敷事
  • 局ヲ脱スルヲ不許
  • 勝手ニ金策致不可
  • 勝手ニ訴訟取扱不可
  • 私ノ闘争ヲ不許

右条々相背候者切腹申付ベク候也

そう、五箇条を破ったら切腹だったのです。

局中法度の性格

新選組の局中法度は、思想的な規律でなく、内部規律のための強制的な規律でした。

局中法度によって敵より味方を殺した

新選組はこの局中法度を適用し、内部粛清により、切腹や暗殺を繰り返して隊士約50名を失っています。
これは、敵を斬った数の実に8倍にものぼるのです。

それだけ新選組では水戸の芹沢一派、近藤ら試衛館派、伊東派など派閥による権力抗争が多かったわけです。

士道ニ背キ間敷事

しどうにそむきまじきこと

武士道に背くような行為をしてはいけない、ということで、これは一番怖いやつです。
なぜなら、どうにでも拡大解釈できるからです笑

新選組の強さは集団戦法であり、志士一人に対して必ず複数で襲いかかりました。
これは、取り締まりは可能な限り生け捕りする方針だったし、武士道だ何だと言ってる場合じゃない状況だからですが、一人に集団ってのは士道に背かないの?と、よく突っ込まれる部分ではあります。

つまり、局中法度はあくまで内部規律のためのもの、ワケ分からんことをする隊士を統制するためのものであり、思想的な規律ではなかったことの証明と言えます。

局中法度は近藤土方らが中心に作ったと言われていますが、派閥争いで対立していた側からすると怖いですけどね。
彼らの気に障ると、士道に背いた!と解釈適用されて切腹になるのです。

局ヲ脱スルヲ不許

きょくをだっするをゆるさず

新選組を脱退することは許されない!
この規律を破って切腹になった人として、副長の山南敬助が有名です。
副長でさえだめなんです。
今だと完全にブラック企業かもしれません。

というか、新選組を脱出したら切腹という決まりは、山南副長を切腹させた正当性を示すために、後日付け加えられたとも言われます。

近藤土方らと意見を異にした伊東一派が、表向きは穏便に新選組から出て行ったときも、のちに油小路の変で惨殺されています。
これも実質この項目が適用されたわけですね。

勝手ニ金策致不可

かってにきんさくいたすべからず

勝手に人の金を奪ったり借金したりしてはいけない。
ということで、新選組には押し借りするような連中がいたので、この規律を作ったようです。
特に初期の芹澤局長なんか、生糸問屋に借金を拒否されて大砲ぶっこんで焼き尽くしたりしているんでね。
真偽は不明ですが。

勝手ニ訴訟取扱不可

かってにそしょうとりあつかうべからず

勝手に訴訟を起こしたり、関係してはならない。

私ノ闘争ヲ不許

わたくしのとうそうをゆるさず

個人的な争いをしてはならない。
局内で隊士同士で抜きあうなんてご法度でした。

が、内部粛清をよくしてたのに、矛盾してますね笑
この一条が子母澤寛による創作だといわれるゆえんです。
長州征伐を見据えて「軍中法度」が作られ、子母澤はそれも一部取り入れて創作したんじゃ?と言われていますが、軍中法度にもこんな意味合いのものは見当たりませんしね。

実は局中法度は後世の創作!

局中法度は、実は新聞記者の子母沢寛の著作『新選組始末記』上での創作です。

というのも、当時の史料が存在しないからです。
誰が作ったか?どういう条文だったか?本当に五箇条だったのか?
などの疑問は、そもそも創作なので、史的に検証することさえ出来ません。

え~?それなら、なんで内部粛清で約50人が亡くなったって分かるわけ?と思いますよね笑
それは、あくまで後世の人間が「架空の存在である局中法度」にあてはめて、死因別に数えたに過ぎません。
元も子もない(^O^)笑

局中法度の元ネタは、二番隊隊長永倉新八の資料

とはいえ、規律のようなものがゼロだったわけではありません。
局中法度の元ネタにされた、史的手掛かりが3つだけあります。

『新選組顛末記』

1つ目は、新選組二番隊長だった永倉新八が、70歳を超えてから後年語ったものをまとめた『新選組顛末記』です。
これには、「芹沢は近藤、新見の二人とともに禁令を定めた。それは第一、士道を背く事。第二、局を脱する事。第三、勝手に金策を致す事。第四、勝手に訴訟を取り扱う事。この四箇条を背く時は切腹を申し付くる事。また、この宣告は同士の面前で申し渡すというのであった。」とあります。

条文は四箇条、名称は禁令とされています。

『浪士文久報告記事』

2つ目は、永倉新八が明治初年に書いた『浪士文久報告記事』です。
こちらには、そもそも
四箇条の禁令すら出てきません。
定めた人についても不明です。

永倉自身が晩年に語って第三者が手を加えた『新選組顛末記』と、永倉自身が記憶も新しい明治初年に自分で記した『浪士文久報告記事』。
信憑性の上でも、局中法度は本当に存在したのかすら怪しいものなのです。

『元治秘録』

3つ目は、唯一の同時代史料です。

「壬生浪士掟は出奔せしものは見つけ次第同士にて打ち果たし申すべしとの定めの趣」という記述があり、脱退する者を同士が斬っていたことがうかがえます。

いずれにせよ、子母澤寛の『新選組始末記』は、永倉新八の『新選組顛末記』の後に発行されており、条文も酷似していることから、永倉の資料を基にして局中法度を創作したことがうかがい知れます。
そしてその後、この局中法度は映画やドラマ、小説などで取り上げられ続けて、今でもドラマや小説の新選組では定番になってしまったといえます。

鉄の掟でも死の掟でもなく、ごく一般的?

局中法度は、新選組の鉄の掟、死の掟なんて言われます。
破れば切腹、というのが、現代人の私たちからしたら恐ろしいからでしょう。

しかし、幕末当時、藩においても武士道に背くような行いは当然に禁止で、脱藩は切腹でしたし、金策や訴訟も禁止されていました。
長州や土佐でも、藩士たちが命懸けで脱藩!というのはよくあることですよね。
坂本龍馬の亀山社中にも規律があり、破った者が切腹しています。

新選組は、史実から離れた「鉄の規律がある恐ろしい集団」というイメージがありますが、それは「局中法度」や「死の掟」なんていう後世の創作で作られたものが大きく、当時の世情を知れば、常軌を逸した恐怖集団などではなく、一般的であったといえます。

おわりに

局中法度の内容から真実まで見てきました。

ちなみに、新選組内の禁令を破るといっても、局長の許可が取れれば無事脱退できた人もおり、融通は効きました。
有無を言わさず切腹!というのは後世の創作ですので、実際は常識的に運用されていたということでしょう。

とはいえ、鬼の副長とか最強集団とか言われるゆえんとして、局中法度が新選組のイメージ形成に与えている影響は多大ですね。