新選組の局中法度をかんたん解説!破れば切腹の鉄の掟の内容とは?

新選組の局中法度について、かんたんに解説します。

新選組の局中法度とは?

新選組の厳しい隊規として有名な、局中法度
局中法度(きょくちゅうはっとがき)とも言われます。

以下の五箇条からなり、新選組での「法」として厳格に運用され、内部粛清に使われたとされます。

局中法度
一、士道ニ背キ間敷事
一、局ヲ脱スルヲ不許
一、勝手ニ金策致不可
一、勝手ニ訴訟取扱不可
一、私ノ闘争ヲ不許
右条々相背候者切腹申付ベク候也

そう、五箇条を破ったら切腹だったのです。

局中法度の性格

新選組の局中法度は、思想的な規律でなく、内部規律のための強制的な規律でした。

局中法度によって敵より味方を殺した

新選組はこの局中法度を適用し、内部粛清により、切腹や暗殺を繰り返して隊士約50名を失っています。
これは、敵を斬った数の実に8倍にものぼるのです。

それだけ新選組では水戸の芹沢一派、近藤ら試衛館派、伊東派など派閥による権力抗争が多かったわけです。

局中法度はいつ誰が作ったのか?

局中法度は、文久3年5月ごろ、芹沢、近藤両局長が中心となって作ったといわれます。
まだ新選組となる前の、壬生浪士組時代ですね。

局中法度を徹底的に執行した副長・土方歳三が作ったイメージが強いかもしれませんが、意外にも、両局長が、初期段階からしっかり作っていたいうことです。

それでは五箇条からなる局中法度、一箇条ずつ詳しくみてみましょう!

一、士道ニ背キ間敷事

しどうにそむきまじきこと

武士道に背くような行為をしてはいけない、ということで、これは一番怖いやつです。
なぜなら、どうにでも拡大解釈できるからです笑

新選組の強さは集団戦法であり、志士や浪士一人に対して必ず複数で襲いかかりました。
これは、取り締まりは可能な限り生け捕りする方針だったし、武士道だ何だと言ってる場合じゃない状況だからですが、一人に集団ってのは士道に背かないの?と、突っ込まれる部分ではあります。

つまり、局中法度はあくまで内部規律のためのもの、ワケ分からんことをする隊士を統制するためのものであり、思想的な規律ではなかったことの証明と言えます。

一、局ヲ脱スルヲ不許

きょくをだっするをゆるさず

新選組を脱退することは許されない!
というこちらの一箇条、もっとも有名かもしれません。
新選組は脱退できない、脱退するなら切腹、ということです。

副長(総長)・山南敬助

この規律を破って切腹になった人として、副長の山南敬助が最も有名でしょう。
山南敬助は、近藤土方と対立し、置手紙を残して新選組を去りました。
しかし、追手として沖田総司が出され、大津で捕まり、屯所に戻って切腹となります。

山南が新選組を去った原因は、新選組の屯所移転問題といわれています。
壬生の八木邸が手狭となった新選組は、西本願寺に移りますが、西本願寺はもともと長州との繋がりが強い勤王のお寺でした。
西本願寺の侍臣・西村兼文が手記を残していますが、新選組を毛嫌いしている様子からも、それが分かります笑

新選組側はそれを分かっていて、長州派である西本願寺に、無理やり乗り込んで屯所にして牽制した形です。
もともと人が良くて勤王的な思想も持っていた山南は、こういった近藤土方のやり方と相いれず、追い詰められていったようです。

参謀・伊東甲子太郎

参謀の伊東甲子太郎も、新選組を去ったことにより粛清された人で、実質この項目が適用されたと言えます。

近藤土方らと意見を異にした伊東一派は、表向きは穏便に新選組から出て行ったものの、のちに油小路の変で新選組に惨殺されています。

一、勝手ニ金策致不可

かってにきんさくいたすべからず

勝手に人の金を奪ったり借金したりしてはいけない。
ということで、新選組には押し借りするような連中がいたので、この規律を作ったようです。
特に初期の芹澤局長なんか、生糸問屋に借金を拒否されて大砲ぶっこんで焼き尽くしたりしていますね。
真偽は不明ですが、とにかくお金に汚いことをしたらダメだよという規律です。

一、勝手ニ訴訟取扱不可

かってにそしょうとりあつかうべからず

勝手に訴訟を起こしたり、関係してはならない。

一、私ノ闘争ヲ不許

わたくしのとうそうをゆるさず

個人的な争いをしてはならない。
局内で隊士同士で抜きあうなんてご法度でした。

が、内部粛清をよくしていたのに、矛盾しているようにも思えますよね。
実は、この一条が、局中法度は子母澤寛による創作だといわれるゆえんです。

長州征伐を見据えて「軍中法度」が作られ、子母澤はそれも一部取り入れて創作したのでは?と言われていますが、軍中法度にもこんな意味合いのものは見当たりません。

局中法度が創作とされることについて、こちらの記事に書いています。

鉄の掟でも死の掟でもなく、ごく一般的?

局中法度は、新選組の鉄の掟、死の掟なんて言われます。
破れば切腹、というのが、現代人の私たちからしたら恐ろしいからでしょう。

しかし、幕末当時、藩においても武士道に背くような行いは当然に禁止で、脱藩は切腹でしたし、金策や訴訟も禁止されていました。
長州や土佐でも、藩士たちが命懸けで脱藩!というのはよくあることですよね。
坂本龍馬の亀山社中にも規律があり、破った者が切腹しています。

新選組は、史実から離れた「鉄の規律がある恐ろしい集団」というイメージがありますが、それは「局中法度」や「死の掟」という後世の創作で作られたものが大きく、当時の世情を知れば、常軌を逸した恐怖集団などではなく、一般的であったといえます。

おわりに

以上、局中法度の内容を見てきました。

ちなみに、新選組内の禁令を破るといっても、局長の許可が取れれば無事脱退できた人もおり、融通は効きました。
有無を言わさず切腹!というよりは、実際は常識的に運用されていたということでしょうか。

とはいえ、鬼の副長とか最強集団とか言われるゆえんとして、局中法度が新選組のイメージ形成に与えている影響は多大ですね。