西南戦争最大の激戦!田原坂の戦いとは?抜刀隊や戦死者についても解説

明治10(1877)年2~9月に起こった西南戦争で、最も激戦だったのは熊本市北区植木町での田原坂の戦いです。

3月4日~20日まで17昼夜に及ぶ戦いで、空中で銃弾同士がぶつかり合うほどの銃撃戦と、激しい白兵戦が行われました。
西南戦争全体の戦死者の、約20%がここで命を落としています。

現在も田原坂はじめ、田原坂西南戦争資料館や弾痕の家などを見学することができます。
今回は、田原坂の戦いについて、かんたんに解説したいと思います。

西南戦争の最激戦区・田原坂とは

西南戦争熊本市植木町田原坂の戦い

田原坂とは、熊本市北区植木町にある約1.5kmの坂の名で、加藤清正が作りました。
熊本城を守る重要な拠点で、熊本城の北約15kmのところにあるのですが、お城への侵入を防ぐためにあえて蛇行させ高低差のある道でした。

西南戦争が始まったばかりの明治10年2月、薩軍は約14,000人で熊本城を包囲していました。
これに対し、籠城していた官軍(政府軍)は約4,000人です。
政府はこれを助けるため、大砲を輸送する広さのある田原坂を通るしかありませんでしたが、薩軍もこの要所を通すわけにいかず、激しい攻防戦が繰り広げられました。

田原坂の一帯は、商業的な開発がなされなかったので、画像のとおり、現在でも西南戦争当時とあまり変わらない景色で、畑や林から銃弾が見つかることもあります。

田原坂の戦いの結果

田原坂の戦いは、当初は薩軍が圧倒的に有利でしたが、最終的には官軍が薩軍の防衛線を突破します。
最終日、3月20日の官軍による総攻撃で突破されるものの、4月15日までは少し後方の植木方面や、隈府(菊池)方面で持ちこたえます。

その後、八代方面に海から上陸してきた政府軍に背後を衝かれ、4月16日に熊本城への入城も許すことになると、旗色が明らかに変わって薩軍は敗走の色を強くしました。
よく田原坂の防衛線突破が重要ポイントと言われますが、戦局が明らかに変わったのは、この海からの衝背隊の上陸だったのです。

死傷者が最多、篠原国幹も戦死

田原坂の戦いで、西南戦争全体の戦死者のうち約20%もの方が亡くなっています。

  • 西南戦争全体の戦死者:官軍約6,400(全兵力70,000)、薩軍6,800(全兵力14,000)
  • うち田原坂の戦い:官軍約1,700(戦死者の26%)、薩軍1,100(戦死者の16%)

特に3月20日の田原坂総攻撃の日は、官軍側の戦死者は300名弱で、西南戦争で一番戦死者が多い日となりました。
官軍はこの日朝から7,700名もの兵力を投入していますから、いかに政府軍が田原坂を重要視していたかが分かります。

一方の薩軍も、一番大隊長で西郷隆盛に次ぐ司令官であった篠原国幹と、11名もの小隊長を失っており、大きな痛手となりました。

国指定史跡へ

田原坂公園と田原坂は、2013年、国指定史跡となりました。
実はそれまで、あまり古戦場の調査は進んでいませんでしたが、国指定史跡となる前後で詳細な発掘調査が行われました。
意外と最近なんですね。

田原坂西南戦争資料館

国指定史跡になり詳細な調査が行われ、それらの結果を踏まえて、2015年にリニューアルオープンしたのが田原坂西南戦争資料館です。
調査で出土した銃弾をはじめとした資料の展示や、分かりやすい映像やパネルで解説が行われています。

地元では有名な心霊スポット

実は、田原坂は、地元では心霊スポットとして有名です。
おばけのエピソードにも事欠きませんので、いくら歴史好きで背景を知っているとはいえ、晴れた昼間でもちょっと私は通りたくないです・・・ビビりなので笑

戦況は当初、薩軍が圧倒的に有利だった

白兵戦がめちゃ強かった薩軍

士族で構成されていた薩軍は、白兵戦はお手の物で、政府軍は非常に手を焼きました。
というのも、政府軍の歩兵は、徴兵による農民出身者が多かった上、士気が高いとは言えませんでした。
カリスマ・西郷隆盛の率いる薩軍の方が、士気が圧倒的に高く決死の覚悟であったのは想像に難くありません。

特に、西南戦争は近代戦だったとはいえ、田原坂のような地形では白兵戦が有利です。
薩軍のめちゃ強い斬り込み攻撃に手も足も出なかった政府軍は、歩兵の中でも士族出身者ばかりを集めて抜刀隊を編成しますが、それさえ壊滅させられます。

困った政府は、士族の多くが当時警察官となっていましたから、そこから特に剣術のうまい人だけを抜擢し、警視抜刀隊として田原坂に投入し、やっと薩軍と互角に戦えるようになりました。

薩軍が恐れた「雨、赤帽、大砲」

西南戦争熊本市植木町田原坂の戦い

こちらは官軍兵士の服装です。
薩軍が恐れたものは「雨、赤帽、大砲」と言われており、この画像一番右が赤帽です。
赤帽=近衛兵、つまり士族による斬り込み隊で、白兵戦が強いわけです。
一番左は抜刀隊、真ん中は徴兵制による歩兵です。

雨は言うまでも無く銃が役に立たなくなりますし、大砲に白兵では勝てません。
こちらがその大砲のレプリカ。

西南戦争熊本市植木町田原坂の戦い

軍旗もレプリカです。
砲大隊が通れる道は田原坂しかなく、早く籠城する政府軍を救援したい政府と、通すわけにはいかない薩軍。
17日間にも及ぶ激しい攻防戦で、このような民謡も生まれています。

雨は降る降る人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂 右手に血刀左手に手綱 馬上豊かな美少年」

薩軍と官軍の食事事情

薩軍の食事は質素

薩軍には、地元の人が炊き出しを行ったと言われます。

官軍の食事は豪華!なんとワインも

西南戦争熊本市植木町田原坂の戦いでの官軍食と薩軍食

一方の官軍の食事は、薩軍に比べて豪華ですね。
ローストビーフまである!
その他、資料にはチーズ、牛乳、ウォッカ、ビール、ワインなどもあり、薩軍とは歴然とした差が・・・
薩軍に同情してしまいます。

当時を物語る弾痕の家(土蔵)

西南戦争熊本市植木町田原坂の戦い

こちらは西南戦争で被災した土蔵を、昭和63年に復元したものです。
当時は田原坂の頂上にあった松下彦次郎家だそうです。
田原坂の戦い直後に上野彦馬が撮影した写真などを元に復元されています。

田原坂西南戦争資料館のすぐそばにあります。

田原坂の戦いに参戦していた有名人

新選組斎藤一はいなかった?

田原坂の戦いは警視抜刀隊が有名で、当時警視庁で警察官となっていた新選組の斎藤一がこれに加わっていたという話がよく取り上げらますが、これは事実ではありません。
確かに斎藤一は西南戦争に従軍していましたが、豊後方面の警視隊に所属していました。ニアミスですね。

土方歳三の小姓・市村鉄之助もいなかった?

箱館戦争後、土方歳三の遺品を故郷日野に届けたことで有名な新選組隊士・市村鉄之助。
彼が、田原坂の戦いに参戦していたという話もありますが、これも事実ではなく創作です。
市村鉄之助は日野から故郷岐阜の大垣に戻り、西南戦争前に病死しています。

史跡 田原坂