幕末の京は血なまぐさい暗殺が横行しました。
今回は、幕末の四大人斬りのうちの一人、岡田以蔵について簡単に解説します。

岡田以蔵は武士だったけど

岡田以蔵は、土佐の郷士です。
郷士ってつまり一応武士なのに暗殺者になったの?と思いますが、土佐藩と言えば身分制度が厳しすぎて、足軽なんて武士の内に数えてもらえないレベルでした。

長州藩なんかは、高杉晋作、桂小五郎、久坂玄瑞など脱藩でなく藩士としての身分のまま活躍した人が多いのに対し、土佐はとにかくみんな脱藩。
厳しい身分制度がある上に藩が過激な攘夷・倒幕活動に寛容でなかったので、脱藩者が多くいたのです。
坂本龍馬や中岡慎太郎も、土佐脱藩です。

と述べましたが一方で、土佐藩は表向き脱藩と称して実は諜報活動をさせていた説もあります。
理由は脱藩後の龍馬や岡田の家がお取り潰し等の処分を受けていないためですが、真相は不明です。

武市半平太の手先

そんなわけで岡田以蔵も藩士とはいえ足軽で、道場などには通えず、独自で剣術を習得します。
その後、同藩の武市半平太に見いだされて安政元(1854)年、彼の道場に入門しました。
岡田以蔵は、武市半平太に心酔して彼の手先として暗躍しますし、武市もとても可愛がっていました。

江戸では、武市と共に三大道場と言われた鏡新明智流・士学館で桃井春蔵から学んでいます。
鏡新明智流・士学館は技より品を重んじた道場でしたが、皮肉にも、幕末という時代のせいで以蔵は暗殺者となるのです。

坂本龍馬の依頼で勝海舟の護衛も

岡田以蔵は、自分の信用する人間の依頼は受けたようです。
つまり、依頼主の主義思想が相反することもあり、時には敵味方関係ない状態になりました。

武市と同様に尊敬していた龍馬からは勝海舟の護衛を頼まれ、実際に勝を暗殺に来た刺客を殺しています。
勝は開国派でしたから、彼を暗殺となると仲間である尊王攘夷派であったかもしれませんが、そこは龍馬の依頼だから受けたんですね。
以蔵がいなければ、勝海舟は77歳まで生きて、江戸無血開城などの偉業を達成することも無かったかもしれません。

岡田以蔵が暗殺した人

本間精一郎

文久2(1862)年8月20日に京で暗殺され、21日、首が四条河原に晒されました。

本間精一郎は越後藩の志士で、清河八郎らと交流して京で倒幕を説いていました。
人望や才能あふれる人だったようで同志から嫉妬され、また武市率いる土佐勤王党と思想的に反する部分もあったと言われ、泥酔させられた挙句に暗殺されてしまいます。
具体的な功績などが無く、岡田以蔵が暗殺した人としてよく幕末史に登場するのがちょっと切ないのですが・・・

本間の暗殺には岡田以蔵だけでなく、同じく幕末の四大人斬りと言われる田中新兵衛も加わっていました。
四大人斬りのうちの二人がいるなんて、本間さん・・・絶望的ですね。

儒学者・池内大学

文久3(1863)年1月22日、土佐藩主山内容堂が滞在していた大坂の旅館に招かれた帰りに、池内は暗殺されました。

池内大学は儒学者で、梅田雲浜、梁川星厳、頼三樹三郎と共に尊攘派儒学者の四天王でした。
梅田と頼は安政の大獄で亡くなっており、当然池内大学も目を付けられていましたが、罪が軽かった上に自首したため、池内だけ命は助かります。(梁川は病死)

普通なら助かってよかったとなるのでしょうが、安政の大獄で生き延びたのは池内だけでしたし、「幕府にこびて仲間を売った」という噂が立てられ、岡田以蔵ら4名によって暗殺されるのです。

池内の首から両耳はそぎ落とされ、公武合体派公卿の三条実愛、中山忠能の屋敷にそれぞれ脅迫文と共に投げ込まれました。
三条と中山はビビってすぐ職を辞しています。

岡田以蔵の愛刀は?

坂本龍馬から贈られた肥前忠広

肥前忠広は坂本龍馬にもらった(借りたとも?)刀で、本間精一郎の暗殺のときに使用しましたが前哨戦で折れたため、本間の体を刺したのは脇差と言われます。
土佐藩士の平井収二郎がこの折れた先を短刀にしており、以前は靖国神社の遊就館にあったそうですが、現在行方不明となっています。

なお、岡田の愛刀には肥前忠吉説もあるようですが、龍馬の刀は忠広(銘 肥前國住武蔵大掾藤原忠廣)であり、龍馬からもらう以前に岡田が忠吉を差していたという資料も無いため、ほぼ忠広で間違いないでしょう。

岡田以蔵の最期

強盗により土佐の獄舎にいた以蔵は、藩による拷問を受けます。
なぜ自らの出身である土佐藩から拷問?と思いますが、土佐藩と武市半平太率いる土佐勤王党は対立していて、この時期、勤王党の面々は藩に追われて投獄されていました。

岡田以蔵は拷問に耐え切れずに内部事情を吐き、土佐勤王党など仲間たちの投獄に拍車をかけてしまいます。
そんな以蔵の自白を恐れた武市半平太らは、彼の毒殺を計画しますが実行はされませんでした。

結局、慶応元(1865)年閏5月11日、岡田以蔵は28歳で斬首されました。

岡田以蔵の評価

岡田以蔵は、その死に際して拷問に耐え切れず自白したことで、仲間たちが獄に繋がれる原因となっています。
尊敬した武市の親族も岡田の自白で犠牲になり、ひいては土佐勤王党が瓦解する原因となりました。
拷問での自白だけならまだしも、仲間たちから獄中での毒殺を計画されるほど嫌われたのには理由がありました。

岡田以蔵は普段から素行が悪かったのです。
一時期は一緒に活動していた高杉晋作や坂本龍馬にまで、借金や不義理をして見放されています。

例えば『維新土佐勤王史』には、「血気の勇はついに頼むに足らず、全く酒色のために堕落して、当初剣客なりし本分を忘れ、その乱行至らざる所なく、果ては無宿者鉄蔵の名を以て、京都所司代に脆くも捕縛せられぬ」とあります。
京で強盗により捕まって土佐に移送されるころ、岡田は土井鉄蔵という変名を使用して、無宿=戸籍からも外された浮浪者になっていました。

維新後、靖国神社に合祀もされず贈位も行われなかったというから、悲しいですね。

近年、特に大河ドラマ龍馬伝において、「武市半平太ら仲間のために拷問を受けても口を割らずに死んだ」というカッコいい描写がなされたために顕彰が始まりました。
しかし、同時代を生きた人たちから拒絶されたのに、史実の本人とは真逆のフィクションによって気運が高まり顕彰・・・というのは妙ですね。

幕末史に異彩を放った人物ということには間違いないでしょう。