刀好きだった新選組局長・近藤勇の愛刀についてまとめました。
偽物説の根強い長曽祢虎徹、実は本物だった・・・?
新選組局長近藤勇の愛刀は何振?
長曽祢虎徹は大小を持っていたと伝わっており、伝来の刀身の長さからすると更に複数あったと推定されます。
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- 長曽祢虎徹➀(贋作):所在不明
- 長曽祢虎徹②(贋作?):個人蔵(金子家?)
- 長曽祢虎徹③(脇差)(本物?):大國魂神社
- 陸奥大掾三善長道:個人蔵(横浜市)
- 丹波守藤原照門:個人蔵(原家)
- 大和守秀國:井上源三郎資料館
- 阿州吉川六郎源祐芳:霊山歴史館
- 播州藤原宗貞:所在不明
- 大隈守広光
長曽祢虎徹➀(贋作)
- 銘 無銘?
- 刀身 二尺三寸五分
- 刀工 長曽祢虎徹?
- 製作時期
近藤勇の愛刀で最も有名なものは長曽祢虎徹でしょう。
ですが、実は近藤勇が池田屋事件の時に使用した虎徹は贋作と言われます。
激闘の池田屋事件でも折れなかった長曽祢虎徹
近藤勇が池田屋事件の時に使用した刀は、近藤が長曽祢虎徹と自認するものです。
事件後、養父近藤周斎らへ宛てた書状に、虎徹についてこのように自慢しています。
「打入候者は、拙者、沖田、永倉、藤堂。養息周平今年十五歳、右、五人に候。一時余之間、戦闘に及申候処、永倉の刀は折れ、沖田の刀はぼうし折れ、藤堂の刀は刃切ささらの如く、倅周平は槍を切折られ、下拙の刀は虎徹故に候哉、無事に御座候」
永倉、沖田、藤堂の刀はボロボロになったけど、自分の刀は虎徹だったから無事だったぜ!
って自慢してます。
かわいいですね笑
なぜ贋作と言われるのか?
資料としては、元治元年6月7日、池田屋事件の二日後に、壬生の研師源龍斎俊永という人が、新選組隊士32名の刀を改めた際の記録「会津守護職様御預 新選組御一統様 御刀改控」があります。
そこで近藤勇の刀については、このように記載があります。
「近藤勇 長曾称興里入道虎徹 二尺三寸五分 出来上ダガ偽物ナリ 刃コボレ小サク三ケ所」
同世代の研師が偽物だと記録しているんですね。
ただし、この資料の信ぴょう性は怪しまれる部分もあります。
が、隊士たちの愛刀を知る上ではとても興味深い資料なのでご参考までに。
虎徹でないなら源清麿?
幕末の頃、偽物の刀を作る人として有名だったのは直胤の門人・直光(鍛冶平)です。
彼は、作風が虎徹に似ている法城寺正弘、上総介兼重などの刀の銘を磨ってしまって虎徹を偽造しました。
近藤勇の虎徹についても、彼が源清麿の刀を同様に偽造したと言われます。
虎徹は特に贋作が多く、新々刀の偽物で最も多いのが天下の名工といわれた源清麿の刀でした。
天下の清麿が虎徹の贋作なんか作るわけがないという説がありますが、もちろん本人でなく第三者が改造(偽造)したわけです。
長曽祢虎徹②(贋作?)
- 銘 ある?
- 刀身 二尺八寸(再刃後二尺三寸)
- 刀工 長曽祢虎徹興正?
- 製作時期 銘にある?
- 所蔵 金子家?
こちらの長曽祢虎徹は、池田屋で使われた長曽祢虎徹とは別と推定されます。
源清麿の偽物でなく、長曽祢虎徹の偽物の長曽祢虎徹、という話もあります。
意味が分からないでしょうがちょっと読み進めてください笑
軍資金の抵当に
近藤勇は戊辰戦争時、甲州において金子家に長曽祢虎徹を抵当に入れて軍資金を調達したとされます。
結局虎徹はそのまま金子家に伝わりました。
昭和16年、ご子孫の金子堅太郎の著書『日本に還る』において、「近藤勇のさした長曽祢虎徹、二尺八寸の大業物」を所持していると書かれており、この虎徹は京で近藤勇が徳川将軍家から賜り、銘も製造年まであり、関東大震災において焼けたので再刃したそうです。
さらに、2016年にはこの再刃の虎徹が出品がされていて、目録には「長曾禰虎徹興正刀元近藤勇差料 長サ二尺三寸 鎬造五ノ目乱 男爵 金子堅太郎君出品」とあります。
壬生の研師・源龍斎俊永は池田屋で使った刀は二尺三寸と記録していますから、再刃前に二尺八寸あるこの刀は、池田屋事件の時に使用した虎徹とは別の刀と推定出来ます。
長曽祢虎徹ではないけれど長曽祢虎徹?
「長曽祢虎徹」というと、初代の長曽祢興里のことを指します。
金子家の銘にある興正は、興里の弟子で二代目を継ぎますが、その作品は初代長曽祢虎徹の贋作として改造された例も多く、おそらく近藤勇の虎徹も同様に改造されたため、「興里の偽物」と言われるのではないでしょうか。ニアミスというかなんというか・・・
というわけで、「長曽祢虎徹ではないけれど長曽祢虎徹?」という歯切れの悪い結論となりました。
未だ、真贋論争に決着はついていませんし、虎徹が実際のところ何本あるのかも不明です。
長曽祢虎徹③(脇差)(本物?)
- 銘 不明
- 刀工 長曽祢虎徹?
- 製作時期
- 所蔵 大國魂神社
さて、虎徹三本目です笑
近藤勇は虎徹の大小を差していたと言われ、こちらは小、脇差の虎徹です。
実物が大國魂神社に現存していますが、真贋は不明です。
ちなみに桂小五郎も長曽祢虎徹を持っていた
余談ですが、実は長州藩士桂小五郎の愛刀も長曽祢虎徹でした。
こちらは池田屋事件のような華々しいエピソードも無いせいか、全く有名ではありません笑
彼の虎徹は、島津藩主島津斉彬公から拝領している本物で、銘も「長曽祢虎徹入道興里」と入っています。(虎徹大鑑)
ここで書くと嫌味みたいですが、そんなつもりないので悪しからず笑
知名度アップするといいね桂さん・・・
陸奥大掾三善長道(会津虎徹)
- 銘 陸奥大掾三善長道
- 刀工 三善長道
- 製作時期 延宝5(1677)年8月
- 所蔵 個人蔵
さて、近藤勇の愛刀に戻ります。
池田屋事件の褒美
池田屋事件の褒美として、会津藩主松平容保が近藤勇に与えたのが陸奥大掾三善長道です。
この刀は、戊辰戦争の甲州勝沼の戦い後に近藤勇が捕縛された時、その尋問にあたった土佐藩士谷干城に没収され、土佐山内家へ献上となりました。
山内家は終戦まで靖国神社遊就館で展示していましたが、現在は個人蔵となっています。
敵に没収された刀
近藤勇からこの刀を没収した谷干城と言えば、同じ土佐藩の坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺したのは近藤ら新選組だと信じて疑わず、とにかく近藤憎し!の人でした。
ですので、敵方に変名で投降した近藤勇の願いもむなしく、正体を見破られた末に切腹でなく斬首されてしまいました。
ちなみに、約10年後の西南戦争の時には、谷干城は政府軍として熊本城に籠城していました。
食料も兵糧も尽きそうな谷らを助けたのは、維新後は政府側となっていた旧会津藩家老の山川浩(大蔵)です。
会津藩主に褒美として刀をもらった近藤勇。
近藤勇を斬首した谷干城。
谷干城を助けた山川浩。
激動の時代の歴史はあまりに皮肉というか、数奇ですね。
丹波守藤原照門
- 銘 丹波守藤原照門
- 裏銘 於関以地鉄粹作之
- 刀身 二尺一寸九分
- 刀工 照門
- 製作時期 江戸中期
- 所蔵 個人蔵(原家)
この刀は、近藤勇が縁戚である国分寺・小柳家に形見として置いていったものと言われ、小柳家の親戚・原家に伝えられました。
2015年に土方歳三資料館で初めて公開されています。
大和守秀國
- 裏銘 慶応二年八月日
- 刀身
- 刀工 大和守秀国
- 製作時期
- 所蔵 井上源三郎資料館蔵
大和守源秀國は会津藩のお抱え刀工です。
同じ刀工の刀を土方歳三も持っており、霊山歴史館に常設されています。
近藤勇の大和守秀國は、近藤が八王子千人同心の井上松五郎に贈ったもので、現在井上源三郎資料館に所蔵されています。
阿州吉川六郎源祐芳
- 銘
- 刀身
- 刀工
- 製作時期 慶応元年八月
- 所蔵 霊山歴史館
こちらは、近藤勇愛刀として2016年に見つかりました。
官軍により斬首された近藤の首は、京都三条河原で晒されていましたが、下僕がその首とこの刀を一緒に持ち去り、後に会津の寺で発見されています。
刀に付けられた伝来覚書によると、大正11年に会津若松市長となった松江豊寿という方が、この史実を知って近藤の碑を建ててこの刀も受領したとあります。
個人蔵でしたが、2017年に霊山歴史館に収蔵されています。
播州藤原宗貞
甲州で長曽祢虎徹を抵当に入れたため、その後近藤勇はこの播州藤原宗貞を差したそうです。
この刀は老中板倉周防守から拝領した刀と言われます。
おわりに
近藤勇は刀好きだったと伝わり、屯所であった八木家の息子・為三郎の回顧談に「刀の話が好きだったとみえ、私の父と話している時は、たいてい刀か槍の話でした」(『新撰組始末記』)とあります。
そんな近藤勇が大切にした刀。
現在でも博物館や神社で見ることが出来る刀もあるので、ぜひ一度お目にかかりたいですね。