新選組土方歳三の愛刀一覧!和泉守兼定、堀川国広、大和守源秀國、葵御紋越前康継

新選組副長・土方歳三の愛刀についてまとめました。
池田屋事件で使われた和泉守兼定と堀川国広、吉田松陰の試し斬りに使われたかもしれない刀まで。

土方歳三の愛刀は何振?

現在伝えられているものは、土方歳三が所持していた時系列で、この5振です。(用恵国包は誤り)

  1. 和泉守兼定(刀身2尺8寸・池田屋事件で使用):所在不明
  2. 堀川国広(刃長1尺9寸5分・池田屋事件で使用):所在不明
  3. 大和守源秀國:霊山歴史館
  4. 和泉守兼定(刀身2尺3寸1分):土方歳三資料館
  5. 葵御紋越前康継:佐藤彦五郎資料館

一振ずつ詳しく見てみましょう。

和泉守兼定(刀身2尺8寸)

  • 刀工 和泉守兼定
  • 刀身 2尺8寸
  • 所在不明

和泉守兼定、新選組の需要で大忙し

和泉守兼定は、会津藩お抱えの刀工で十一代目
室町末期に会津へ移住し、芦名盛氏に仕えたのが会津兼定の始祖です。

文久2年、会津藩主松平容保が京都守護職として入京するのに伴い、のち十一代兼定も上洛しています。
十一代兼定は、会津藩お抱えとなった新選組隊士たちの刀も多く製作しており、幕末動乱の京にあって、その作刀が追いつかないほどの需要だったそうです。

池田屋事件で使用された和泉守兼定

そんな幕末の京都、新選組が一番活躍した時期に土方が所持していたのが、和泉守兼定です。

現在所在不明ですが、こちらの和泉守兼定は、池田屋事件の際に使用された刀です。
事件後、近藤勇が佐藤彦五郎に宛てた手紙で「土方氏も無事罷在候、殊に刀は和泉守兼定二尺八寸脇差一尺九寸五分堀川国広」と記しています。

土方は和泉守兼定を何振か持っていた

新選組は実戦が多く刀は消耗品でもあったため、土方も和泉守兼定を数振り所持していたとされています。

池田屋事件で使用されたこの和泉守兼定は所在不明ですが、別の和泉守兼定は現存しています(後述)。
手紙や実在により確認できる兼定は2振ですが、先に述べたように十一代和泉守兼定は作刀が追いつかないほどたくさんの刀を作っていた=それだけ消耗されたということですので、他にも多くの和泉守兼定が存在したことは想像に難くないですね。

堀川国広

  • 刀工 堀川国広(贋作説が根強い)
  • 刀身 1尺9寸5分
  • 所在不明

池田屋事件で使用された堀川国広

和泉守兼定(刀身2尺8寸)と同様、池田屋事件で使用され、現在は所在不明である脇差です。
上記の近藤の手紙によって土方の所持が確認されていますが、真贋含めて不明な点が多い刀です。

大和守源秀國

  • 銘 大和守源秀國(秋月種明懇望帯之)
  • 裏銘 (幕府侍土方義豊戦刀)慶応二年八月日(秋月君譲請高橋忠守帯之)
  • 刀工 和泉守兼定
  • 刀身 2尺3寸1分
  • 製作時期 慶応3年2月
  • 所蔵 霊山歴史館

土方歳三が会津藩士秋月登之助へ贈った刀

大和守源秀國は会津藩のお抱え刀工。
銘の( )内は後に刻まれたもので、土方歳三が会津藩士秋月登之助(種明)へ贈ったものと分かります。

贈った時期は、作刀が慶応2年であることを鑑みると、戊辰戦争時、大鳥圭介率いる旧幕府軍伝習隊時代と推定され、同隊第一大隊長が秋月登之助であり、土方は参謀を務めていました。

東京の個人が所有していましたが霊山歴史館が新収蔵し、2016年4月29日より常設展示されています。
公式サイト:霊山歴史館

和泉守兼定(刀身2尺3寸1分)

  • 銘和泉守兼定 裏銘慶応三年二月日
  • 刀工 和泉守兼定
  • 刀身 2尺3寸1分
  • 製作時期 慶応3年2月
  • 所蔵 土方歳三資料館

箱館から贈られた遺品のひとつ

現在土方歳三資料館に伝えられている和泉守兼定は、慶応3年2月に製作されています。
亡くなった時に土方が所持していた刀として死後、箱館より贈られた遺品のひとつとされますが、土方歳三資料館に伝来した経緯などは不明です。

市村鉄之助に託したとされるものは手紙及び写真であり、和泉守兼定が伝えられたという記録はありません。

現在でも、毎年命日の5月11日前後や、特別公開の時期に見ることが出来ます。
公式サイト:土方歳三資料館

葵御紋越前康継

  • 銘 以南蛮鉄於武州江戸越前康継
  • 裏銘 安政六年六月十一日於伝馬町雁金土壇払山田在吉試之 同年十一月廿三日於千住府ト太々土壇払山田吉豊試之
  • 刀工 越前康継
  • 所蔵 佐藤彦五郎新選組資料館

土方歳三が源之助へ贈った刀

甲州勝沼戦後、土方が佐藤彦五郎の長男・源之助に贈ったものです。
拵の下げ緒は土方が仙台藩主伊達慶邦より拝領したものと伝わります。

吉田松陰斬首の試し斬りに使われた刀か

裏銘にあるように、幕府の罪人の試し切りに使用された刀でもあります。

安政の大獄で処刑された吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎を斬ったのは、幕府の御様御用(刀の試し斬り役)で死刑執行人を務めていた7代目山田朝右衛門吉利です。(花燃ゆにも出てきましたね)

銘にある、安政6年6月に試し斬りをした吉豊はこの7代目の長男、同11月に試し斬りをした在吉は次男です。
世襲でなかった山田家を、のち慶応4(1869)年に唯一実子が継いだのが8代目吉豊です。

吉田松陰が萩の野山獄から江戸に向けて出発したのが安政6年5月25日、翌6月に江戸に到着しています。
この後、10月に伝馬町牢獄で処刑されていることを考えても、吉豊の試し斬りは松陰のためかと推定できますが、定かではありません。

現在でも、こちらで見ることが出来ます。
公式サイト:佐藤彦五郎新選組資料館

おわりに

新選組の刀は、近藤勇の長曽根虎徹と土方歳三の堀川国広は贋作、沖田総司の菊一文字はフィクションであるとされていますが、後世に語り継がれてきた彼らと刀剣のエピソードは興味深いものがありますね。
実際に目にすることが出来る刀もありますから、興味のある方はぜひ見に行かれてみてくださいね。

刀の時代が終焉に向かった幕末という時代を「刀」という点から再考してみるのもまた、面白いかもしれません。