吉田松陰とは?生涯・人物・思想を解説!山口で呼び捨てると怒られるかも

吉田松陰は、萩藩の尊王攘夷派の思想家で、幕末長州の多くの志士たちの師です。
彼がいなければ明治維新は成らなかった、と言っても過言ではありません。

ちなみに、私が長州に数年住んでいた&萩にいる友人たちの体験談上、彼の出身地である山口県萩市で「吉田松陰」と呼び捨てにすると怒られます笑
「松陰先生」です。
それほど、今も大切に思われている偉人であり、郷土の教育にも根ざしており、数多くの名言も残している人物です。

どんな人なのか、見ていきましょう。

吉田松陰はこんな人!

  • 全国を自らの足で旅する行動力、黒船にも乗り込んじゃう
  • 読書家でものすごく筆マメ、多くの名言を残す
  • 近所の子供たちを集めただけの松下村塾から、維新の志士を多く輩出した優れた教育者
  • 塾生には自ら考えさせる!マンツーマン&集団討論で徹底的に伸ばす
  • ピュアで誠実、それが裏目に出て幕府に斬首されてしまう
  • 肖像画のせいでおじいちゃんぽいけど、享年30歳なんです

吉田松陰のプロフィール

名前 幼名:虎之助、大次郎、松次郎
通称:寅次郎
諱:矩方
号:松陰、二十一回猛士
字:義卿
変名:松野他三郎、瓜中万二
所属 萩藩士(現山口県萩市)
肩書 山鹿流兵学者、教育者、思想家
生没年 1830(天保元)年8月4日~1859(安政6)年10月27日
死因 伝馬町牢屋敷にて刑死(斬首)(享年30歳)
墓所 遺体:小塚原回向院(東京都荒川区)
遺骨:松陰神社(東京都世田谷区)
遺髪:団子岩(山口県萩市)
祭神 松陰神社(山口県萩市)
櫻山神社(山口県下関市)
靖国神社(東京都千代田区)
功績 松下村塾主宰
関係者 久坂玄瑞、毛利敬親、高杉晋作、佐久間象山、宮部鼎三、金子重之助
関係事件 黒船密航未遂、老中間部詮勝暗殺未遂、安政の大獄
著作 留魂録(安政6年)
資料 吉田松陰全集 全10巻(岩波書店、1934(1986復刊)山口県教育会編

9歳で藩校明倫館の師範、11歳で萩藩主に講義!

松陰は杉家に生まれ、6才にして萩藩の山鹿流兵学師範の吉田家へ養子に入ります。
将来は藩の軍学者の家柄なので、幼いころから厳しく教育されました。
9歳の時、藩校明倫館の教授になります。
11歳の時には、藩主・毛利敬親の面前で『武教全書』を講義し、いたく感心させました。

この頃の藩と言えば「国」ですから、今で言えば、総理大臣に講義するようなものですね。
10歳そこらで、あなたは安倍総理に講義、できますか?
松陰君、すごいですね。

海岸警備の視察で危機感を募らせる

20歳のとき、赤間関(現在の下関)などの海岸線を視察します。
この時、海防警備があまりにお粗末だったので、危機感を募らせました。

のちに明治維新を成すことになる幕末の雄藩(長州、肥前、薩摩)は、どこも海岸に面した地形であり、海防警備により外国への危機意識を強く持っていた藩です。

それでもなお、自藩の海岸警備はまったくふがいない!と感じた松陰。
現状への差し迫った危機感が、その行動力に繋がっていたのでしょう。

旅の人松陰・宮部鼎三と共に東北遊歴

松陰は思想家でしたが、とにかく行動の人でした。
新幹線や飛行機なんかない江戸時代、日本全国を自らの足で旅します。
すべての事象は、百聞は一見に如かず!
机上の空論なんか意味がない、自分で見て聞くことが一番だと考えていたのです。

考え方も素晴らしいですが、全国を徒歩だなんて、私なら死んじゃいますね笑
すごい健脚の持ち主だったんですね。

黒船密航

太平の眠りを覚ます蒸気船、たった4杯で夜も眠れず

江戸が大騒ぎとなった黒船来航。
人々は突如現れた夢でも見たこと無いような巨大な船に、恐れおののき、幕府までも弱腰です。

しかし松陰は、これは外国を知る絶好のチャンス!と考えました。
早速、夜中に黒船にこっそり小舟で乗り付けて、なんと乗船してしまいます。
しかし、黒船(ポーハタン号)の船長は、アメリカへの渡航を願う松陰を拒否。

下田奉行所に自首した松陰は、伝馬町牢屋敷に入れられてしまいます。
自首してしまうのが松陰のとても正直なところ。
悪く言えばしたたかさが足りない、と言えるかもしれませんね。
この正直さは後、松陰の命を奪うことにもなってしまいます。

過激な言動で入獄

松陰があの黒船で密航を企てて失敗し、幕府の牢に入れられたと聞いて、萩藩の上層部はビックリ仰天!
鎖国をしている日本において、外国の船に乗り込むだなんて、ちょっ、おま、まじ、ばっかじゃねえの!!!ってなったわけですね笑

萩に檻送されてくると、藩で一番重い犯罪者が入る「野山獄」に松陰を入れてしまいます。
ここでの生活は一年に及びますが、松陰は置かれた場所で自分のできることをします。
同じように入獄している罪人たちに、教育を始めるのです。

この野山獄では、のち松下村塾で教鞭をとってもらうことになる富永有隣と知り合います。

維新の志士を多く輩出!松下村塾

吉田松陰と言えば松下村塾。
野山獄から出て、実家の杉家へ幽閉されることになった松陰は、幽閉中の身で松下村塾を主宰します。
松下村塾は、松陰の叔父・玉木文之進が起こした私塾であり、松陰はそれを引き継いだ形です。

塾生は、今日の有名人ぞろいです。
四天王の、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一は言わずと知れた幕末の志士。
全員維新を見ることなく亡くなりますが、近代日本誕生の改革の布石となりました。

松下村塾は、江戸の昌平坂学問所のように、全国から優秀な人材を集めた学校ではありません。
ただ、近所の子供たちを教育した私塾です。
そこが維新の震源になったのは、松陰の人間力や教育方法に秘密があったからでしょう。

松下村塾では、自ら考えること、行動すること、松陰も含めた塾生同士で討論して意見を交わすこと、情報を収集することなどを重視した、実践的な教育が行われました。
机に座って勉強するだけではなかったんですね。

危機感から過激になる言動

安政5年、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結しました。
これを知ってからますます、松陰の行動は過激になってゆきます。

幕府の老中間部詮勝を要撃しようとしたり、藩主毛利敬親を京都伏見で待ち受けて京都に入る策を練ります。
松下村塾の仲間たちからも反対されるほどで、倒幕を公言し始めた松陰を、萩藩政府は危険視して再び野山獄に入れてしまいます。

幕府による大弾圧!安政の大獄

幕府が天皇をないがしろにして日米修好通商条約を結んだことで、全国の尊王攘夷派志士たちの行動も過激さを増します。
幕府を公然と批判する人も多くなります。

天皇を差し置くとは何事か!
幕府は勝手に夷狄と手を結んだ!
日本を外国に売り渡すのか!
という風にです。

幕府は、これらの動きを疎んじて、強硬策に出ました。
それが安政の大獄、という大規模な政治弾圧です。

松陰も運悪く、この大弾圧によって幕府に捕縛されてしまいます。
もともと幕府は、尊王攘夷派で反幕府派の儒学者・梅田雲浜を捕縛したついでに、雲浜が萩を訪れるなどして松陰とも関係があったことが分かり、松陰も事情聴取しよう、という流れでした。

しかし松陰は、事情聴取が始まるやいなや、自ら老中・間部詮勝を要撃しようとしたことを話し始めます。
老中の要撃を企てていたなんて、青天の霹靂です。
ビックリ仰天した幕府は、こんな危険な松陰は死罪にしてしまおうと決めてしまいました。

松陰からしたら、至誠を尽くせば必ず分かってくれる、という気持ちだったのでしょう。
しかし、安政6(1859)年10月27日、松陰は江戸伝馬町牢屋敷で、斬首されてしまいました。
この時、松陰は強く抵抗したと伝わっています。

草莽崛起!師の意志を継いだ志士たち

松陰刑死の報を受け、松下村塾の塾生たちは強く結束し、倒幕への決意を新たにします。
松下村塾の門下生で中心人物だった久坂玄瑞は、一灯銭申合といって、尊王攘夷のために資金を蓄えて一致団結しようという書を作成します。
これには、高杉晋作などの門下生以外にも、桂小五郎など24名が参加しました。

幕府は、松陰を消すことでスッキリしたかもしれません。
しかし皮肉にも、これが倒幕へのさらなる原動力となりました。

松陰刑死からわずか8年後、慶応4(1867)年には15代将軍・徳川慶喜による大政奉還が成り、江戸幕府は消滅。
翌年から元号は明治となり、戊辰戦争は新政府軍の勝利で終結、新たな時代が幕を明けることになるのです。

新たな時代に活躍した、主な松下村塾の塾生です。

  • 品川弥次郎:尊攘堂を設立し志士の史料を保全、内閣の要職を歴任
  • 山縣狂介(有朋):初代内務大臣、内閣総理大臣、陸軍大将、元老
  • 山田市之允(顕義):初代司法大臣、日本大学・國學院大學の祖
  • 伊藤俊輔(博文):初代内閣総理大臣、初代韓国統監、元老
  • 野村靖:内務大臣、逓信大臣などを歴任

おわりに

吉田松陰という人は、とてもエネルギーにあふれた影響力のある人でした。
自ら行動し、後進を教育し、著作を残し、改革の礎になる。
筆マメな人だったので、多くの名言も残しています。

学ぶことがたくさんあり、私は萩に行く時は、必ずお墓と松陰神社を訪れ、気持ちを新たにします。

また、松陰神社は、学問の神様としても有名ですので、受験生の方はそういった視点でも訪れてみるのもいいかもしれませんね。
※日本三大学問の神様:北野天満宮(菅原道真)、太宰府天満宮(菅原道真)、松陰神社(吉田松陰)