松下村塾での吉田松陰による教育内容や教育方法をかんたん解説

幕末、長州藩にあった100人にも満たない小さな私塾から、日本を変えた人物を輩出した松下村塾
久坂玄瑞、高杉晋作など維新の志士から、明治政府を動かした伊藤博文、山県有朋など。
松下村塾とはどんな塾だったのか?どんな教育をしたのか?
簡単に解説します。

松下村塾とは?

吉田松陰の松下村塾の教え、塾生、四天王など

松下村塾は、幕末の萩藩(山口県萩市)にあった私塾です。
現在も同地に当時の建物が現存し、世界遺産となっています。

1842年、吉田松陰の叔父玉木文之進が開塾しました。
1857(安政4)年11月、新塾舎が杉家の庭に完成し、吉田松陰が引き継いでいます。
翌1858年12月、吉田松陰の投獄により閉鎖され、その後も親族らによって中断しつつも明治半ばまで続きます。

一般的に松下村塾といえば、吉田松陰が主宰した時期を指すことが多いです。
その期間は、1857年11月~1858年12月のたった一年間でした。

松下村塾って、何がすごいの?

幕末、全国に私塾は星の数ほどありました。

中でも全国的に有名なのは、大坂の適々斎塾(適塾)と、大分県日田の咸宜園です。
今でいうと早稲田大学と慶応大学といったところでしょうか?
全国から優秀な人を集めて、多くの人材を輩出しました。
とはいえ、そもそも元から賢い人を集めているので、優秀な有名人が出るのは必然と言えます。

一方の松下村塾。

こちらは近所の子供たちを集めただけの塾です。
私塾なので足軽や中間など、身分の低い人も入れましたし、何と言っても吉田松陰が指導したのはたった一年。
この局所的な場所と期間で近代日本の礎となる人材を多数輩出したのですから、一体全体どんな教育をしていたのか?となるわけです。
すごいですよね。

輩出した人材については、こちらをご覧ください。

松下村塾とは?先生や塾生、四天王、現存の部屋までかんたん解説

どんな教育をしたか?【教育方針】

さてこれだけの人材を輩出した松下村塾。
一体どんな教育をしていたのか、まずは方針から見てみましょう。

個性を認め、褒め、長所を伸ばした

松下村塾には、固定されたカリキュラムなどはありませんでした。
吉田松陰は、塾生の能力に応じて指導し、愛弟子たちの門出には一人ひとり「送序」として大いに激励する文を与えました。
一人一人をしっかり観察し長短を把握し、塾生自身も大切にされている実感があったと言えます。

議論をすること

松陰は「沈黙自ら護るは余甚だこれを醜む」(訳:意見を言わないやつは嫌い!)として、活発な議論を望みました。
長州人は議論好き、と言われますが、自らの意見をきちんと言葉にして相手に伝え、討論し、塾生同士が切磋琢磨することを大切にしました。

自ら行動し、情報を集めること

松陰は日本全国を旅した旅の人で、自分で行動し、自分の目で見聞きすることを重視しました。
国元で蟄居の身となってからは自由に動けませんでしたが、その分、塾生たちがその手となり足となり情報を集めました。
藩にも進言して情報の重要性を説いています。

松下村塾には『飛耳長目録』というものが置いてあり、ここには塾生たちが江戸や京など全国で見聞きした情報や、藩の幹部や商人に至るまで様々な人から聞いた情報が書きこまれ、共有されたのです。

どんな教育をしたか?【指導方法】

吉田松陰の松下村塾の教え、塾生、四天王など

主な指導方法

主にこの8つに分けられますが、他に武術も行うなど、柔軟に対応していました。

  1. 講釈:松陰による講義
  2. 会読:グループで書を読んで研究、討論する
  3. 順読:塾生による講義
  4. 討論:テーマに添う集団討論
  5. 対読:一対一の個人指導、松陰と塾生、先輩と後輩
  6. 看書:自習
  7. 対策:テーマに添う論文の筆記と松陰による添削
  8. 私業:読書をして塾生の前で評論し、批評を受ける

インプットは当然として、基本的にアウトプットを重視しているのが分かりますね。
得た知識を、自分なりに理解、反芻して、人に伝え、共有し、意見を交わすことが大切にされたわけです。

講釈(講義)とは

松陰が先生となって講義するのが講釈です。
主に兵学と文科に分けられますが、塾生の勉強の進み具合やその時々の松陰の関心によって、割となんでもアリだったようです。

兵学は、山鹿流兵学で、武士の心得などを説く精神性の強い軍学です。
文科は、『大学』『孟子』『中庸』『論語』『武教全書』などを講義しました。
相手が一人でも丁寧に講義したと言います。

会読とは

『孫子』『日本外史』『古事記伝』『大日本史』などを数名で読み、研究しました。
今でいう集団討論で、主体的に意見を持って述べる姿勢を重視しました。

剣術・水練・操銃などの武術も

松陰は12歳で剣術、槍術、馬術を会得しており、松下村塾でも重視しました。
剣術は塾の庭で行い、水練は近くの松本川で行っていたそうです。

松陰は山鹿流兵学者ですから、もちろん兵学に明るく、著作である『西洋歩兵論』『操習筌蹄』などは、奇兵隊総督となった高杉晋作や、用兵の奇才と言われた山田顕義の考えの基礎ともなりました。

武家に卑しまれた算数も教えた

商人がすることとして武士には卑しまれた算術も、松陰は大切なことだとして教えました。こういった松陰の姿勢が、常識にとらわれない開かれた雰囲気を松下村塾にもたらしたのかもしれません。

作文、習字

松陰は、字の美醜でなく、考えが相手に伝わる文章を書くように教えました。
松陰と共に教鞭を取っていた富永有隣は書家でしたので、自然と習字もカリキュラムに加わりました。

夜でもOK!時間は自由

松陰は午前、午後、夜間に分けて講義をしていましたが、塾にくる日にちや時間は固定されていませんでした。
塾生は来たい時に来て、徹夜する場合でも松陰は付き合ったと言います。

吉田松陰の人間力

吉田松陰の松下村塾の教え、塾生、四天王など

(道の駅萩往還にある左から高杉晋作、吉田松陰、久坂玄瑞)

以上のような指導で塾生を育て、世に送り出したわけですが、やはり吉田松陰という人の「人間力」が大きかったことは言うまでもありません。

実直で優しく、丁寧な言葉遣いの人

松陰はとても優しく穏やかで、言葉遣いも丁寧でした。
塾生を叱りつけることはあっても、その後必ず文を送るなどのフォローをして、叱りっぱなしにはしなかったと言います。
人を愛した姿勢が伝わります。

常に自分は質素で清廉だった

これは、どんなに出生しても贅沢をせず質素であった西郷隆盛とも通じるところがありますね。
所作も、だらけることなく、いつもピシッと背筋を伸ばして講義をしていたと伝わります。

感化する力

一番重要だったのはこれかなと思います。
松陰は、普段の物腰や穏やかさからは想像できないくらいの過激な思想を時に出現させました。
そして、それらを塾生はもちろん藩の上層部などにも熱心に伝えています。

先に述べた老中の暗殺計画や、藩主の参勤交代を無理やり止めて攘夷の宣言を企むといったことのほか、黒船に乗り込んで密航を図ったり、安政の大獄で江戸に引き連れられた際には自ら老中の暗殺未遂を暴露して斬首となったりしています。

先生として上に立つというよりは、自分自身も実践の人であり、塾生たちとも同志として接しました。
松陰は、常に自分の姿勢を塾生たちに見せていたということですね。

時に久坂や高杉、藩上層部はその過激さを持て余すこともありましたが、松陰の私欲でない真心は伝わり、彼が斬首された後も、その意志は松下村塾の塾生たちに引き継がれ、倒幕がなることになるのです。