西郷隆盛が設立した私学校跡と西南戦争銃弾跡

西郷隆盛が設立した、鹿児島県鹿児島市にある私学校跡についてです。

設立目的とは裏腹に、暴走する私学校

鹿児島市西南戦争西郷隆盛私学校跡と銃弾跡の石壁

明治7年、下野した西郷隆盛が、陸軍士官養成のために設立したのが私学校です。

設立費用は西郷隆盛、大久保利通、桐野利秋などが賞典禄から出したり、鹿児島県予算からも拠出されている所をみると、私学校と言えど公的な性格が強く、のち生徒数10,000人を超える大規模な組織になっていきます。

設立は、明治政府に不満を持つ不平士族を抑え、統率するという目的も大きかったのですが、皮肉なことに後、生徒らが暴発して西南戦争の原因となり、多くは薩軍の主力となって戦場に散ってしまいます。

戦後、私学校は廃止され、現在は私学校の跡に「西郷南洲翁設立 私学校跡」の碑と、門及び石壁のみが残されています。

西南戦争開戦の軍議が行われた場所

明治10年2月4日、西郷隆盛はこの私学校に入ります。
5日、私学校幹部と137の分校の校長ら合わせて約200名が評議の上、全軍出兵となりました。
6日、西郷も加わり作戦会議となり、全軍率いて陸路東上が決定されました。

14日、私学校横の練兵場で西郷による1~5番大隊の閲兵式が行われ、別府晋介率いる先遣隊、6、7番大隊が加治木を出発します。
15日、1、2番大隊が出発。
16日、3、4番大隊が出発。
17日、西郷隆盛、桐野利秋、村田新八が5番大隊、砲隊と共に出発しました。

ここに、西南戦争が開戦となったのです。

銃弾跡が残る石塀

鹿児島市西南戦争西郷隆盛私学校跡と銃弾跡の石壁

私学校の石壁には、多くの銃弾跡があります。
これらの弾痕は、明治10年9月の官軍による城山総攻撃によるものです。

鹿児島市西南戦争西郷隆盛私学校跡と銃弾跡の石壁

西南戦争は明治10年2月に始まり、同9月24日の城山における西郷隆盛の自刃により終結します。
城山総攻撃による銃弾ということは、まさに西南戦争の最終局面での激しい戦闘を物語っているのです。

鹿児島市西南戦争西郷隆盛私学校跡と銃弾跡の石壁

私学校跡と銃弾跡の史跡は、始まった場所と終わった場所を見ているようで、とても感慨深くなります。

私学校跡、西南戦争銃弾跡