時代の先端を行きピストルを持っていた坂本龍馬ですが、意外にも刀剣専門書を読み込んで鑑定するほどの愛刀家でした。
いったいどんな刀を持っていたのでしょうか?
龍馬の愛刀についてまとめました。
坂本龍馬の愛刀は何振?
龍馬は刀好きで、龍馬や関係者の手紙などから少なくとも15振は持っていたとされています。
しかし、現在所在が分かっているのは5振のみです。
- 陸奥守吉行:京都国立博物館
- 埋忠明寿:京都国立博物館
- 備前勝光宗光合作:京都国立博物館
- 立花圀秀:高知県立歴史民俗資料館
- 備前元重:山形市最上義光歴史館
※1 高知県立坂本龍馬記念館と北海道坂本龍馬記念館にも各1本ずつ陸奥守吉行が所蔵されていますが、龍馬所持の刀とは別物です。
※2(銘 相州鎌倉住圀秀作 嘉永七歳八月日)はのち土佐郷士の弘瀬健太に譲っています。
所在不明
上記のほかに、所在不明ですが龍馬の手紙や日記に登場する刀は以下のものがあります。
- 肥前忠広:かつては靖国神社遊就館にあった
- 源正雄:陸奥守吉行と交換に西郷の侍従熊岡に与えた刀
- 伝相州正宗 無銘:お龍が三吉慎蔵に形見として与えた刀
- 備前盛光:姉乙女に形見として与えた刀
- 短刀 無銘:姉乙女に形見として与えた刀(長州藩主毛利敬親から拝領した粟田口吉光の短刀か)
- 相州秋広 無銘:お龍が所持した形見
- 短刀左行秀:お龍が所持した形見(個人蔵?田内宇吉)
- 相州国秀:高知城懐徳館蔵の後行方不明
- 延寿物:薩摩藩士吉井幸輔に贈った刀、神崎則休指料の銀象嵌
- 了戒
- 備前兼光
現存するが龍馬の刀か未確定
- 備前長船:個人蔵(下関市)
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相州正宗:個人蔵(下関市)
陸奥守吉行
坂本龍馬の愛刀で最も有名なのが、陸奥守吉行。
兄の権平より贈られた刀で、西郷隆盛を通じて慶応3年3月に龍馬の手元に届いています。
龍馬はその年の11月に近江屋で暗殺されていますので、最長でも8ヶ月しか所持していなかった刀ですが、龍馬はこの刀をとても気に入って自慢していました。
慶応3年6月に兄権平にあてたお礼の手紙で、「然るに先頃西郷より御送つかわされ候吉行の刀、この頃出京にも常に帯つかまつり候。京地の刀剣家にも見せ候所、皆粟田口忠綱ぐらいの目利つかまつり候。」と報告しています。
粟田口忠綱は初代は上作、二代は上々作、吉行は中上作ですので、京都の複数の刀剣家の鑑定で、この吉行の刀は上位のランクである粟田口忠綱ほど素晴らしいと言われた、とご機嫌に報告しているわけです。
いつも帯びているというほど龍馬が気に入っていた陸奥守吉行ですが、暗殺時にもこの刀で応戦しています。
龍馬の死後は、北海道に移り住んだ坂本家で保管されていました。
大正2(1913)年、釧路大火に遭い鞘は焼失しましたが、刀身は京都国立博物館に寄贈されています。
この刀身は長年、龍馬の陸奥守吉行ではないとされてきましたが、坂本家七代当主の弥太郎氏が、昭和4(1929)年に行われた展覧会に出品した龍馬の遺品目録が最近見つかり、焼けたが再刃はされていないことが判明しました。
釧路大火で変形して刀身の反りや刃文を失くしていたことが分かり、刃紋の調査なども行われた結果、2016年、京都国立博物館が龍馬の陸奥守吉行であったことを発表しました。
埋忠明寿
銘は山城国西陣住埋忠明寿作。
昭和6(1931)年に坂本家から京都国立博物館に寄贈された刀です。
京都国立博物館では、2015年まで土佐勤王党の島村衛吉の刀として管理していましたが、前述の弥太郎氏の資料の発見により、龍馬が妻お龍の妹の夫(義理の弟)である海援隊菅野覚兵衛に贈った刀であることが判明しました。
備前勝光宗光合作
坂本龍馬が最も愛した脇差で、弥太郎氏の記録に「此刀ハ龍馬ガ特ニ愛セシモノ也」とあります。
幼少期から佩用しており、親からもらった守り刀と言われています。
大正2年の釧路大火で、同所にあった陸奥守吉行は焼けていますが、この脇差は火災前に退避されており損傷が少ないそうで、家宝として大切にされていた様子がうかがえます。
その分、陸奥守吉行も退避出来ていれば・・・とちょっとだけ悔やまれますね。
昭和4年の展覧会後に行方不明となっていましたが、2015年に見つかり、2016年10月、京都国立博物館で、陸奥守吉行・埋忠明寿・この備前長船の3本が揃って展示されました。
坂本家で昭和初期頃に3本揃って撮影された写真があり、昭和4年にも同時に展示された目録はあるものの、その後別人のものとされたり行方不明になったりしていたため、この展示は実に87年ぶりに3本が揃った展示となり話題になりました。
肥前忠広
文久2年、土佐脱藩を決意して挙動不審の龍馬について、兄権平は脱藩とそれにより家族親戚に類が及ぶことを警戒し、龍馬の佩刀を取り上げてしまいます。
しかし、姉の乙女はこっそり倉庫に忍び込んで、この肥前忠広を龍馬に授けました。
その後、龍馬は肥前忠広を佩用していましたが、岡田以蔵に与えたとも借りパクされた(笑)とも言われ、ついに龍馬の手に戻ることはありませんでした。
岡田以蔵は、肥前忠広を本間精一郎の暗殺のときに使用しましたが前哨戦で折れたため、本間の体を刺したのは脇差と言われます。
土佐藩士の平井収二郎がこの折れた先を短刀にしており、以前は靖国神社の遊就館にあったそうですが、現在行方不明となっています。
備前長船・相州正宗
山口県下関市の個人・石森氏が所持する刀と脇差が、龍馬の刀かも?と言われています。
根拠は下記ですが、現時点で龍馬の刀だと確定には至っておらず、今後判明すると嬉しいですね。
- 長府藩出身の海軍少将・伊藤常作が所持した2振で、伊藤家から譲り受けた
- 常作は龍馬が創設した海援隊士で繋がりがある
- 龍馬が長府藩士三吉慎蔵に相州正宗と備前長船銘の愛刀を渡した説がある
- 一緒に保管される鍔は、富士山と龍をあしらった南蛮鐔であり、龍馬が同じ柄の鐔を注文して受け取った記述が「坂本龍馬大辞典」にある
おわりに
以上、坂本龍馬の愛刀についてでした。
刀だけみても、近年見つかったり新たに判明する事実も多く、ロマンがありますね。
龍馬ファンにはおなじみの京都国立博物館ですが、愛刀も特別展などで定期的に展示されていますので、機会があったらぜひご覧くださいね。