熊本県御船町で平成26年7月6日(日)に開催された宮部鼎蔵没後150年記念シンポジウム!
参加したきたので、ただの感想です。(2014.7.30公開記事の移転です)
講演自体の内容にはほぼ触れてませんあしからず笑
宮部鼎蔵没後150年記念シンポジウムの内容
何気なく見た前日の新聞で開催を知ったのですが、霊山歴史館の木村副館長がこんなド田舎に??ということで急遽参加してみることにしました。
別件の予定があったので、講演とその後のパネルディスカッションを途中まで聞いて退出しました。
記念講演「宮部鼎蔵と池田屋事件」
霊山歴史館副館長 木村幸比古
パネルディスカッション「明治維新と宮部兄弟」
コーディネーター:木村幸比古
パネラー:
- 吉田松陰顕彰会(萩市) 代表山本貞寿
- 一般財団法人養生会(青森県弘前市) 理事長小笠原豊
- 宮部兄弟顕彰会(熊本県御船町) 副会長田中外至
- 高杉晋作語り人(福岡市) 亀田真砂子
- 不知火龍馬会(熊本県宇土市) 代表野口修一
パッと見て、宮部さんより萩ゴリ押しだな笑
弘前と松陰
青森の弘前はご存知のとおり、松陰先生と宮部鼎蔵が東北遊歴で訪れた場所ですね。
嘉永5年3月1日に、彼らは弘前藩の儒学者伊東広之進宅を訪ねています。
吉田松陰来遊の地 附 松陰室【市指定史跡】
吉田松陰が宮部鼎蔵と共に弘前に来たのは、嘉永5年(1852年)である。
このとき二人は、藩の儒学者伊東広之進(号梅軒)宅を訪ねて藩の軍事や教育について説明を受け、また国事を談じた。
明治39年、伊東広之進旧宅を隣家の医師伊東重が購入してここに養生幼稚園を創立するとともに、松陰らが会談した部屋を「松陰室」と命名した。
現在は幼稚園舎から切り離されて、伊東広之進旧宅のうち玄関から座敷(松陰室)にかけての部分が保存され、今日に伝えられている。
この土地と建物は、明治維新の志士吉田松陰が訪れた記念すべきものであり、部分的ではあるが宝暦6年(1756年)以前に建てられた武家住宅の遺構としても貴重である。
ちなみに、伊東重は明治41年、東京世田谷にある松陰神社の吉田松陰50年祭に参列し、錚々たる人々の手で盛大に開催されたこの記念祭に感銘を受けます。
これは弘前でも是非顕彰をせねば!!ということで、明治44年3月1日に第一回吉田松陰先生記念会を開催しており、以後欠かすことなく毎年続いているとのことです。
世田谷の松陰神社の石燈籠はわたしも数年前にじっくり見てきましたが、毛利元昭公はじめ乃木希典、伊藤博文、山県有朋、井上馨、桂太郎、野村靖、寺内正毅などすごい面子ですよね。
鳥居は木戸孝允の寄進ですが、最近老朽化により建て替えられたんでしたっけ?
改めて松陰先生の偉大さを実感。
ってか見て分かる通り、弘前は宮部鼎三のことは完全にスルーしてますねw
名前も松陰室だし・・・
あれ、宮部鼎三シンポジウムじゃなかったっけ?
まさかの大盛況
そんな感じで、正直、宮部鼎蔵という人は有名でもないし、ギャラリーは数十人程度かなと思っていたんですが、行ってびっくり大ホールが満席で立ち見が出るほどでした…!
200人以上入っていた気がします。
小学生の寸劇があったので、保護者や祖父母が多かったとはいえ、予想以上の人出でしたよ。
お膝元なのにスルーされる主役・宮部鼎三
で、遠路はるばる弘前から、松陰室を管理されている一般財団法人養生会理事長小笠原豊氏がいらっしゃったというわけですが・・・
話の内容も、弘前と松陰についてばかりで、宮部さんほぼスルーw
すごいね、宮部鼎三のお膝元でも松陰ゴリ推し笑
弘前、いちおう松陰先生と宮部さん二人で訪れているんだけどね。
まあ、ご本人も、御船のみなさんには大変心苦しいのですがとおっしゃられてました笑
幕末、肥後藩は置いてけぼりだった
なぜ宮部鼎三がスルーされるかというと、そもそも幕末に肥後藩って全然出てきませんよね。
藩としては先見性が無くて置いてけぼりだったので存在感がなかったわけですが、個としては横井小楠や宮部鼎三という有名人もいたのです。
なので、たとえスルーされようと笑、熊本で幕末といえば、御船町と宮部鼎蔵は一縷の望みなんですよ。頑張って欲しいですね。
萩の吉田松陰顕彰会の会長が、「この繋がりを大事に、今日ここから始めましょう」という旨のことを言われてちょっと胸が熱くなりました!
松陰先生と宮部さんの友情のように、強いものにしていってほしいですね。
宮部鼎三がマイナーなわけ
いくら肥後細川藩が幕末政治史で蚊帳の外だったとはいえ、なぜ幕末当時は有名人だったはずの宮部鼎個人までも現在、マイナーなんでしょう。
個人的には、一次史料が少ないのと「個」であるせいかな~と思います。
長州や薩摩、会津みたいに人気になるポイントである群像劇的な要素が皆無です。
そして、新選組が圧倒的人気であることも大きいと思います。
悲しいことに、池田屋事件でポッと出てきた斬られ役という印象が拭えません。
宮部さんの一般知名度を上げるには、「個」から脱却して松陰先生と抱き合わせたりしつつ笑、今回みたいなシンポジウムやゆかりの地と交流していくことが大事だと思いますね!
何より私は今回、地元の子どもたちが宮部さんの寸劇をしていて、彼を学んでいることに感動しました。
地元で大事にされるというのは、宮部鼎三という人が人格者だったからでしょうし、素晴らしいと思います。
萩藩京都留守居役・乃美織江の?
講演の内容は、特に目新しい情報は無かったのですが、今回一番びっくりしたことが!
どうやら隣に座られてた方が、萩藩京都留守居役の乃美織江の御子孫だった・・・?(本当かは分からない)
というのも講演中、木村副館長が「この京都留守居の乃美は後々不評を買った人物でして・・・笑」という発言をされてたんですが、私の隣に座られた方が、講演後に知人と挨拶されていた際、「どうも乃美でございます。お久し振りです。なんだか私の御先祖様の悪口を言われてましたけど笑」と言われたのが耳に入ったのです。
おお?と思いつつ、乃美織江覚書の原本を四苦八苦して読んだのを思い出しました。
※後日、乃美織江覚書は活字になって出てた気がしますが、それがどの本だったか思い出せないので思い出したら載せます笑
そんなこんなで、途中退席。
大雨だしその後用事あったしで慌ただしかったので、今度はゆっくり宮部鼎蔵誕生地や鼎春園、恐竜博物館にも行ってみたいです。