新選組の名を世に知らしめた池田屋事件。
幕府にとってはお手柄事件でしたが、同志や教え子を殺された坂本龍馬や勝海舟は嘆きます。
一体どんな事件だったのか?簡単に解説します。
池田屋事件とは?
池田屋事件は、元治元(1864)年6月5日、京都三条小橋の旅籠・池田屋(長州藩の定宿)で起きた、新選組による反幕府勢力の殺傷事件です。
池田屋では反幕府・尊王攘夷派の志士たちが会合を開いており、そこに幕府の治安維持組織である新選組が斬り込んで血みどろの大乱闘となったわけです。
これにより、維新の志士10数名が犠牲となりました。
新選組を一躍有名にした事件でしたが、一ヶ月後に京が火の海になる禁門の変の暴発を招いており、元々長州贔屓なのに被災までした京都の人たちは幕府や新選組への不満を強め、いっそう長州藩に同情的となり、最終的には維新の成就=幕府の終わりを早めたと言われています。
なんとも皮肉です。
池田屋で戦った人は?
佐幕側
- 新選組(会津藩預り):近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助
- 京都守護職(会津藩)
- 京都所司代(桑名藩)
初動は新選組、あとから会津や桑名が応援に来て、池田屋をぐるぐるに囲んでます。
反幕側
脱藩含みますがこんな感じ。
- 長州藩士:吉田稔麿、杉山松助、有吉熊次郎、広岡浪秀
- 土佐藩士:北添佶摩、石川潤次郎、望月亀弥太
- 肥後藩士:宮部鼎三、松田重助
ずらりと大物ばかりですね~
それだけ、この日池田屋で行われた会議が大事だったわけですが、何を話していたんでしょうか?
池田屋事件のきっかけは?
池田屋にずらりと大物志士が揃ったのには理由があります。
まず、当時の京都政局は佐幕派が牛耳っていました。
前年の八一八の政変で、反幕府派公卿や長州藩は締め出されてますから、彼らは政権勢力の奪還を目指してます。
京にはこっそり多くの志士が潜伏し、情報収集や政情の内偵を行っていました。
京都の人たちは長州びいきですから、協力する寺院や旅籠は多くありました。
古高俊太郎を奪還せよ
そんな中、新選組に尊攘派志士・古高俊太郎が捕縛されます。
なんで新選組が捕まえるかというと、彼らは京都の治安維持を会津藩から請け負ってました。
今でいう警察ですね。
古高俊太郎は、尊王攘夷・反幕府の急先鋒であり安政の大獄で幕府に処刑された梅田雲浜に弟子入りしていたり、久坂玄瑞、桂小五郎、宮部鼎三らと交流する尊王攘夷派の志士でした。
古高家は毛利家の遠縁にあたるとも言われます。
古高は、京都四条にある福岡筑前藩御用達の枡屋で、桝屋喜右衛門として古道具商をしていましたが、ここは実質、志士たちの京都での尊王攘夷活動の支援拠点となっており、情報収集、諜報活動、尊攘派公卿・有栖川宮熾仁親王との連絡係などを担っていました。
現在、画像のように跡地にはしる幸という汁物屋さんが営業していて、門前に石碑が建っています。
店内には当時の建物も一部残されていますよ。
そんな重要人物が新選組に捕まって監禁されている!大変!
ということで、池田屋に集まったメンツも攘夷派志士の主要人物ばかりでした。
志士たちが池田屋で会合したのは、古高俊太郎の奪還計画を練るためだったのです。
天皇の拉致などはねつ造
よく言われる、「過激派志士たちが風の強い日を選んで京に火を放ち、その混乱に乗じて京都守護職・松平容保を暗殺し、天皇を長州に拉致する計画であったものを阻止した」というのは、当時幕府側によりねつ造された主張です。
というのも、唯一の根拠は土方歳三の拷問による古高の自白=つまり幕府側の主張しかなく、志士側の資料には一切出てこないのです。
まあ、極秘裏の計画だから残さんくね?と言われたらそれまでですが笑
現在では、古高が自白したのは名前だけで、その他については幕府側が自らの正当性や手柄を誇張したものと言う見方が強いです。
新選組まわりは特に後年のフィクションが相当あって、史実が見えにくいのです。
池田屋事件の経緯
(画像は、古高俊太郎が土方歳三に拷問された当時のままの土蔵が残る、新選組屯所・前川邸)
というわけで、新選組は、古高を捕まえて拷問したけど全然自白しないし困ります。
とりあえずの手掛かりは、枡屋から出てきた志士たちの手紙や武器弾薬。
古高は古道具商として、裏ではこっそり武器とかも扱っていたんです。
そして手紙には色々大物志士とのやり取りがあるわけです。
新選組は、いつまでも古高を自分たちの屯所に監禁しておくと志士から奪還されるかもしれないし、過激な奴らがいっぱい潜伏してるのは分かったから早々に京都中をしらみつぶしに探そうぜ!ってなります。
で、探し回ります。
志士たちが集まるのが池田屋であることは、新選組は把握していませんでした。
というのも、彼らは規律違反の切腹や体調不良で、ただでさえ少ない隊士を更に3つに分けて、文字通りしらみつぶしの捜索をしています。
場所が分かっていたら、戦力を分けなくていいししらみつぶしの捜索も不要ですよね。
そして、捜索開始から二時間経ってようやく、池田屋を見つけるのです。
池田屋事件での激闘
現場は新選組10名、志士は20数名
一番最初に現場にいたのは新選組が10名、中にいた志士は20数名と言われます。
中でも新選組側は、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名で斬り込み、残りは裏口等を固めます。
新選組は、当初は人数的に不利であったので片っ端から斬りつけ、9名の志士が犠牲になっています。
その後、土方らの応援隊が駆け付けてから捕縛する方針となりました。
池田屋から逃れた志士の多くは長州藩邸へ逃げ込みました。(現ホテルオークラ京都)
諸説ありますが、吉田稔麿や望月亀弥太は現場から逃れたものの藩邸の門が開かずに自刃し、杉山松助は事件を聞いて長州藩邸から駆け付けたけれど闘死しました。
逃げの小五郎
池田屋には、長州藩で一番の重要人物・桂小五郎もいました。
彼は屋根づたいに逃げて無事でした。
逃げの小五郎と言われる彼ですが、生きて大業の見込みがあるなら生きろ!と言っていた吉田松陰の思いが胸にあったに違いありません。
その後、明治新政府を樹立して維新の三傑となるわけですから、本当にここで死ななくてよかったですね。
殉難七士とは
池田屋事件では、明治新政府で活躍したであろう前途有望、優秀な人材が多く亡くなっています。
特に吉田稔麿、北添佶摩、宮部鼎蔵、大高又次郎、石川潤次郎、杉山松助、松田重助の7名は殉難七士と言われ、のち明治政府より従四位または正五位を追贈されています。
その他の犠牲者
池田屋事件では、池田屋の主人・池田屋惣兵衛や関係者も捕縛されています。
池田屋惣兵衛はのち獄死しており、長州藩の定宿として志士をかくまった罪に問われました。
坂本龍馬や勝海舟との関係
坂本龍馬や勝海舟は、池田屋事件に直接は関係していません。
が、龍馬は同じ藩の同志である北添佶摩、石川潤次郎、望月亀弥太を亡くし、非常に衝撃を受けて嘆いています。
また、勝海舟にとって北添佶摩と望月亀弥太は、神戸海軍操練所時代の教え子であり、その死を嘆きました。
池田屋事件後、龍馬はじめ土佐藩の志士たちが暮らしていた河原屋五兵衛の隠居所は、京都守護職などの役人に踏み込まれました。
さらに、そこで賄いをしていた貞(龍馬の妻お龍の母)や君江(お龍の妹)は連行され、のち釈放されました。
当時の京都は、怪しいやつはみんな捕まえてしまえ!という雰囲気で恐ろしいですね・・・
池田屋事件の現在!場所、跡地は?
池田屋事件の跡地には、「池田屋騒動之址」の碑が建っており、現在は飲み屋が営業しています。
池田屋跡は、どんな商いをしても志士の祟りでつぶれると言われてきた場所で、飲み屋の前のパチンコ屋がつぶれてた時も「え~祟りってほんと~?」とドギマギしたんですが、まさかの池田屋と名の付く飲み屋が出来たときは驚きました笑
今のところ無事続いていますので、興味のある方は訪れてみてはいかがでしょう。